更新日:2011.04.19
文/編集部 写真/フォード/ゼネラルモータース
ヨーロッパ車ファンはアメ車を馬鹿にしている。古臭くて雑な機械だと。うすらデカいウドの大木だと。それはメディア側まで似た状況で、たまに褒めている文章があっても、オチャラケ混じりに「古臭いダメなところがいい」とかそんな物言いだ。C6系コルベットZR−1がポルシェやフェラーリを一蹴しても、あれは特別なのだと例外視する。
確かにアメ車は、一見そう思えてしまう。例えば、マスタングやカマロやチャージャーには、アウディやレクサスLSのような高品質感や動作の洗練はない。インテリアに使われる樹脂材も化粧板も、その建てつけも敵わない。
なのだがアメリカ生まれのそれらには、乗る人間の心を沸き立たせる何かが間違いなく備わっている。過去の名モデルを再現したスタイリングのことを言っているのではない。もっと深いところにそれらが内包するもの。すなわち、乗って触って走らせたときに感じるカタルシスだ。
マスタングは、リアサスに古式ゆかしいリジッドを敢えて使っている。そのリアサスは時に不器用な足運びを見せるけれど、コーナーの立ち上がりで上手に後ろに重心を載せてアクセルを開けてやると、美しく腰を沈めて惚れ惚れするような体勢でダッシュを決める。マスタングがそういうグリップ走行でミエを切れば、カマロはパワードリフト体勢に入れたとき鮮やかな身のこなしを演じてドライバーを魅了する。自動車のメジャーリーグで通用する持ち球はそれくらいなのかもしれない。しかし、それが決まったときは天下無双の威力を発揮するのだ。無表情なまま全域で高いロードホールディング能力を発揮するアウディやレクサスとは全く対極に位置するそれは快感。道具としての融通性や洗練性では負けるかもしれないが、機械を操るときに得られるカタルシスではそれらをはっきり上回っている。
思えばこの十数年で自動車は、コストダウンという至上命令のもとプラットフォームの大規模な共用化が推し進められて、無表情な手触りの機械になる道を進んだ。これでは白物家電ではないかという怨嗟の声さえ上がった。それに対する自動車界の回答はデザインでの差別化だった。
だが実は、それはアメリカが戦前から戦後にかけての時期にとっくに通ってきた道である。あの頃アメ車は、同じシャシーに様々な外皮を着せて複数の商品を作り分け、さらには毎年のようにデザインを替えて陳腐化と需要促進を図った。その結果、70年代から90年代にかけて、アメ車は家電製品のような味気ない消費財に堕さんとしていた。
しかし、その停滞期を抜け出す動きが21世紀を目前にしたころ現れた。ユーザーの情感のありかを上手に捉え、そこを正確に突いて、思わず飛びつきたくなるような自動車をアメリカが送り出すようになったのである。バイパーに始まって、フォードGT、クライスラー300Cそしてマスタングやカマロやチャージャー。みな技術そのものに拠って立つのではなく、見事にひとの感情を鼓舞する決定的な何かで勝負するクルマだ。自動車という商品の「命」が何だったか、彼らは再発見したのだ。
技術は進歩していく宿命を背負っているから、どちらが正しいのかと問われれば、アウディやレクサスのほうが正しいに決まっている。それを否定してしまっては自動車に未来はない。しかし、どちらが魅力的かと問われれば言うまでもない。そこには自動車にとって失ってはならない大事なものがある。マスタングやカマロやチャージャー等はその素晴らしき好例である。
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